やまと絵の定義の変遷2016/08/09 12:59

 美術論の課題1のレポートを発送した。「やまと絵の定義の変遷について考察せよ」というお題。しかし、これが手書きレポートじゃなければNGなのだ。ほとんどの科目がwebで提出できるのに何ということでしょう。2200字手書きするのに、何時間もかかってしまいました(^_^;)

美術論

美術論02

以下、レポート抜粋

 やまと絵(大和絵)とは何か。大辞林には「①中国的な主題を扱った唐絵(からえ)に対して、日本の風景・風俗を描いた絵。平安時代の用語。②鎌倉時代に渡来した宗元画およびそれにならった絵を唐絵・漢画と呼ぶのに対し、平安時代以来の伝統的な絵画様式をいう。また、土佐派が成立し大和絵を標榜してからは、その流派をいう語としても用いられた。」とある。日本絵画の原点ともいわれるやまと絵の定義の変遷を考察する。

 10世紀初め、唐の衰退・滅亡を受けて、自らの文化を創生する必要に迫られ、日本固有のかな文字、和歌が生み出され、絵画では、日本の風景や風俗を描いた「やまと絵」が誕生する。日本の風景・風俗などを描くのが「やまと絵」、中国の風景・風俗などを題材にするのが「唐絵」、やまと絵はあくまでも唐絵との題材の違いを指す対立概念として用いられた。

 やまと絵は和歌文学と密接な関係をもちながら発展したが、鎌倉時代後期になると、唐の末期に発生した水墨技法が、宋から日本に伝えられ、その画風に倣って日本で描かれた新しい様式の絵画を「唐絵」または「漢画」と呼ぶようになる。これに対してやまと絵は平安時代以来の伝統的な様式の絵画の総称として用いられた。

 南北朝時代の藤原行光に始まる土佐派は、やまと絵の題材や技法様式を伝承した。室町時代になって、朝廷の絵画制作を主導する地位を世襲するようになると、やまと絵は土佐派の画風として流派的意味をもつようになった。室町中期の狩野正信を始祖とする狩野派は、水墨画にやまと絵の華麗な彩色を採り入れ、和漢の融合を試み、その後停滞する土佐派とは対照的に、近世最大の絵画制作組織へと発展してゆく。

 狩野派と並び、江戸時代を通じて栄えたのが琳派である。その創始である俵屋宗達は中世の絵巻を模写するなどしてやまと絵の古典に学び、題材の摂取に努めた。その意味で琳派の作品は、やまと絵の伝統の上に開花したものということができる。また初期の浮世絵師たちは自らをやまと絵師と称したが、浮世絵師にとって、狩野派より古い絵画伝統でるやまと絵は、拠って立つにふさわしい絵画様式だった。江戸後期には、復古大和絵派が興きやまと絵の近世的な復興を試みた。

 明治以降の近代に入ると、洋画との対立概念として、やまと絵、漢画、唐画などを、ひとつの流れとしてくくり日本画という呼称が使われることになった。このように「やまと絵」という言葉の定義は使われた時代によって異なるが、現在では広く日本的な絵画をさすことが多い。

 ちょっと物足りない気もするが、ここは、単位獲得を優先して評価は気にしないでいきましょう。9月初旬に「建築史(4単位)工芸論(2単位)の科目テストが待っている。それをクリアして文化科目の単位が48なので、どうしても、あと2単位必要なのですよ。

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