卒業リーチ!2016/10/27 16:44

 美術論・科目試験の結果が出た微妙な70点。「良」で2単位確定しました。これで、造形文科目の必要最低数50単位をクリアして118単位。後は卒業制作の6単位を取れば、卒業所要単位124単位となる。履修中の科目をまったくやらなくても、卒制さえ合格すれば卒業となるが、少しでも取得単位は増やすつもりだ。

単位取得表

 問題は卒業制作。「焚き火」テーマの映像作品と思って、いろいろテスト動画を作ったり、試行錯誤はしているが、やはり少し違う。何かが違う。映像で見るものを引き込むだけのスキルもない。AfterEffectsで加工をすれば現代アート的なムービーを作れなくはないが、それってなんだろう。
 
 ということで、今ムービー作品も一つのアウトプットとして抑えておいて、改めて、自分は何をしたいのか、何を伝えたいのか、何を表現したいのかを、今一度考えている。格好をつけてもしょうがない。自分自身で納得のいく作品ってなんだろう。6年間の集大成でもあるし、チャレンジングな作品に挑戦したい気持ちもあるが、スキルのないものをやっても人を感動させることはできないし…「焚き火」にこだわっているけど、本当に焚き火でいいのか。場合によっては別なテーマを考えたほうが良いかもしれない。

 出口のない迷路に入り込んだような気分である。来週の11月5日・6日は二回目の卒制スクーリング。ど、どうしよう…

美術論、課題2の結果2016/10/26 10:59

 旅行から戻ったら、美術論の課題が戻ってきていた。評価は「B」。今回はもしかしてAをもらえるかなと思ったが、それは叶わなかった。課題1同湯簡潔な評価だが、なぜAが取れないかなんとなくわかったような気がする。

 以下講評。(H井先生)
「的確かつ簡潔にポイントをまとめている点が評価できます。さらに独自の視点や考察が加わるとより説得力のある読み応えのますレポートになるでしょう。」ということだった。

美術論2

 課題1の講評が
「定義の成立と変遷をわかりやすくまとめています。近代以降の展開についても、もっとふみこんで記述が加わると良かったですね。また、なぜそのようにへんせんしたのか、その背景についても考えて見てください。」

 つまり、学習指導書でも「自らの視点に立脚した論旨を展開することが望ましい」とあるが、つまり自分なりの見方や考え方を持って論じろということだ。事実を踏まえて、自分なりの解釈を考えるって、かなりむすかしいかもしれないが、逆に考えれば、自分なりの解釈なら多少おかしくてもOKみたいな気もする。
 
 とにかく評価は出た。課題2の結果が出ないうちに受けた、科目試験の結果がまだ出ない。これが60点以上なら、卒業にリーチとなる。

美術論、科目試験2016/10/16 20:04

 美術論の科目試験が終わった。日曜日、このためだけに新幹線と中央線と西武バスを乗り継いで鷹の台の本校に行った。開始まで1時間ちかくあったので、昼食をとりつつ最後のお勉強。裏返しのテスト用紙が配られ12時30分の開始時間まで待つが、裏からじーっと問題を透視したら鎌倉って文字が見えたので「やったね!」と心がときめいた。というわけで、ヤマが当たったといおうか、定通りというべきか、お題は「政権の移動が美術に与える影響を鎌倉時代を例にとって述べよ」だった。

美術論試験01

美術論試験02

 8割がた書くことができたと思うが、問題は内容。美術史としての資料は多々あるのだが「鎌倉幕府がどのように美術に影響したか」が書かれた文献が見つからなかった。で、いろいろ調べて、武士の台頭によって鎌倉美術の方向性が、「それまでの王朝文化の華やかなものから、武士の気風を反映した質実剛健の写実主義が主導になった。」ととりあえず結論付けたけど、直前で教科書「日本美術史」の記述をよくよく読んだら、「美術に対する武士の影響はそれほどでもない。少なくても武士が鎌倉美術の方向性を決定したとはいえない。」のだと。えって感じだったけど、政権の移動といっても京都の朝廷も残っていたわけで、だから武士の影響はさほど大きくなかったと自分なりの解釈でまとめた。…どうだろうな?
 
 まあ、内容はともかく合格が目標。60点は取れたと思うから、後はまだ戻ってこない課題2の結果しだい。再提出にならなければ2単位ゲットで、トータル118単位、残りは卒業制作の6単位で、卒業要件の124単位だ!!

美術論、課題2提出2016/09/25 11:14

 「日本美術における芸術と社会との関わりについて考察しなさい。できるだけテーマを絞り、具体的な記述でまとめること」、これが美術論課題2のお題。テーマをいろいろ迷ったが、日本文化論でも取り上げた浮世絵と大衆の関わりに注目することにした。これが無事通って、科目試験に合格すれば、卒業要件の文化科目50単位のハードルをクリアできる。「C」でも良いのから通して欲しいです。

美術論2

以下、レポート抜粋。
「浮世絵の誕生と大衆絵画の成立」
 浮世絵は日本代表する伝統的芸術作品であるが、そもそも生活風俗などを描いた印刷物に過ぎない。そのような浮世絵がなぜ江戸庶民文化の華とも称される大衆絵画として成立したのかを考察する。

 桃山時代に、御用絵師たちによって、人々の生活をテーマにした風俗画が描かれるようになるが、概して大型の絵画作品であり、それを所有するのも鑑賞するのも支配階級であった。しかし、江戸時代に入ると、町絵師たちの手で描かれるようになってゆく。江戸初期の絵師で特筆されるのは、「岩佐又兵衛」である。風俗画の流行をきっかけに、遊女などの姿絵を描いた絵画掛軸が大量制作されるなど、風俗画の所有や鑑賞が少しずつ一般大衆にも広がりを見せていく。

 そうした風俗画が大衆絵画として決定づけられたのは、「菱川師宣」による「浮世絵」の誕生である。印刷された版画は誰もが購入できる商品となり、一般庶民が絵を気軽に楽しむ状況が生み出されたのである。さらに大きな転換期を迎えるのが「鈴木春信」による多色刷りの極彩色版画「錦絵」の完成である。浮世絵は、版元の下、絵師、彫師、摺師の共同作業で作られ、専門の絵双紙屋を通して人々の手に渡ったが、その流通量は膨大であり、庶民の美意識を変化させる上で重大な役割を果たしたのである。

 「鈴木春信」の後、さまざまな作者が次々と現れ、さまざまなジャンルを生みながら浮世絵の世界を広げていった。浮世絵はまた、情報を得るためのメディアしても庶民に浸透していった。それら浮世絵のテーマの特徴は世俗性にあるといえ、明らかに庶民感覚を反映した享楽主義的なものであった。このことは浮世絵の担い手が、制作する側も見る側も一般庶民であったことを示している。浮世絵は、武家や公家、上層町人のものだったそれまでの絵画とはまったく別な文脈で発展していったのである。

 明治期に入り、存在基盤を失い消滅せざるを得ないものとなったが、庶民のささやかな娯楽であり続けた事実は疑いもなく、二百年余にわたっる庶民の支えてが、浮世絵を大衆絵画として成立させたといえ、また19世紀後半の西洋の芸術家に影響をおよぼすなど、庶民の力が単なる大衆娯楽に過ぎなかった浮世絵を芸術作品へと生まれ変わらせたのである。

 投函した後に、学習指導書を改めて読むと、「…考察対象も過去の作品に限らず、我々を取り巻く現代社会も視野に入れて欲しい」とある。ちょっとミステーク(汗)、浮世絵が庶民の力で芸術作品になったあたりを、「現代社会もまた、芸術は特別なものではなく、誰でもが芸術作品を作る可能性を秘めている。その作品を芸術と見るか否かは、市民の手に委ねられている…」とかなんとか書けばよかったかな。

美術論、課題1講評2016/08/22 15:09

 美術論課題1が帰ってきた。評価は「B」だった。自覚していたことだが、レポートの記述が少し甘かったことは否めない。多少焦っていた感もあるが、課題2はもう少ししっかり調べてから書くことにしよう。

美術論講評

 以下講評。H井先生。
「定義の成立と変遷をわかりやすくまとめています。近代以降の展開についても、もっとふみこんで記述が加わると良かったですね。また、なぜそのようにへんせんしたのか、その背景についても考えて見てください。」

 と簡素な講評。つまり「近代以降の記述」がなかったことと、「定義が変遷した原因」が書かれていないことが、B評価の原因ということだ。資料があまりなかったので、近代以降は書かなかったというか書けなかったが、教科書(カラー版日本美術史)をよく見ると、165ページに「文展出品者の方では、大正15年、松岡映丘、鈴木清貴、平福百徳らが金鈴社を結成し、明治以前のやまと絵や浮世絵的なものを復興しようという動きも生まれていた」という記述があった。しまった〜という感じだが、さらに調べると、明治時代に入って西洋からの多様な文化と比較して、古典的なやまと絵の様式が改めて人々を魅了するようになったようだ。キーは松岡映丘で、美術人名辞典には「山名貫義にやまと絵を学び、ついで川合玉堂の指導を受け、金鈴社や新興やまと絵会を起こし、さらに国画院を結成し、やまと絵の伝統を近代に蘇らせた」とある。やはり、もう少し調べてまとめるべきだった。「定義が変遷した原因」については、読めばわかると思ってあえて書かなかったが、「その時代々々の外圧というか、国外からの伝搬した文化によって変遷した」と明記すべきだった。

 B評価で「やまと絵の定義の成立と変遷」を改めで調べて、朧げながら近代以降を把握したことは、収穫といえば収穫である。自分の知識として身につけるには、まだまだだが…