現代芸術論、断念2016/12/10 21:40

 今年度最後の科目試験は、新年1月9日だ。それに間に合うためには、レポートの必着は12月14日。途中までレポートを進めてみたもののまとまらず、さらに手書きレポートとあって、郵送か持参するかになる。卒制でパニクっている最中でもあり、それどこれではない状態、これを取らなくても、卒業の要件は満たす。卒業制作優先ということで、少し残念ではあるが、現代芸術論の単位取得は諦めることにした。

以下、現代芸術論の課題2「芸術の「大衆化」について述べよ」の、まとまっていない途中までのレポートです。

 「芸術といっても様々な解釈があるが、本科目では、20世紀以降の視覚芸術全般を現代芸術と捉えているので、ここでは「20世紀以降の視覚芸術の大衆化」として論を進める。そもそも、大衆化(たいしゅうか)とは、なにか。『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』では「近代社会の構造変化と社会規模の拡大化に伴って発生してきた大衆の行動様式などの画一化現象をいう。(後略)」とある。また、『大辞林』では「ある事物が一般民衆の間に広まること。また、広めること。」と解説されている。

 現代芸術は大衆化されているのだろうか。個人的な感覚からすれば、いまでも現代芸術は難解であり、けっして一般民衆の間に広まっている、つまり大衆化されているとは思えない。展覧会に行っても、前提になる知識がなければ、意味不明なものが並んでいるだけに過ぎず、フェルメールやルノワールの絵のように、素直に感動することができない作品も多い。

 現代芸術とは何かということになるが、フォーヴィズムあたりが現代芸術の源の一つといわれる。アンリ・マティスの作品に『緑のすじのあるマティス夫人の肖像』とい絵画作品があるが、伝統的な芸術に慣れ親しんだ一般的な感覚でいえ、ばけっして上手いとも美しいともいえない。発表当時も「まるで野獣」と酷評されたが、色彩自体の表現によって人間の感情や感覚を表すという考え方は、その後のいわゆる現代芸術の道筋に大きな役割を果たしている。さらに、現代芸術の方向性を決定付けたといわれるのが、あらゆる既成価値を否定する破壊的な芸術運動ダダイズム(ニューヨーク・ダダ)の中心人物マルセル・デュシャンであり、その最重要作品のひとつに挙げられるのが『泉』である。工業製品の小便器にサインを入れただけのこの作品は、実在する造形物そのものより考え方が作品の本質であるという、コンセプトという知性をテーマにした表現方法を示し、芸術に新たな地平を示したのである。デュシャン以後、芸術家たちは様々な「新しい表現」を模索し、無数の主義(ism)や様式(style)、表現が生まれた。一般的なの絵画(タブロー)にとらわれることなく、立体や映像、インスタレーション、パフォーマンスなど、さまざまな前衛的表現手法が模索され、従来の概念に収まらない作品を多数生み出してゆくことになる。フォーヴィズムやダダイズムなどに代表される20世紀前半の現代芸術を「モダニズム」という概念でくくることができるが、芸術家は芸術を自己表現の場としてとらえて、芸術の本質とは、人間の根源とは何を問い、芸術家自身の自己表現によってその答えを求めた。それは、結果的に一般大衆と距離を置くようになり、知識人と呼ばれる一部の人間しか理解できないものになっていくが、モダ二ズムは「理解できない」というより「理解されることを否定する」かのようにも見えるのである。モダ二ズム芸術の最大の特徴のひとつはこの一般社会との隔絶ともいえるのである。」

 結論までには至らずでした。

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