濱田庄司を知る2015/07/19 15:56

 工芸Ⅰの通信課題のレポート制作のために、益子を訪ねたが、その際、初めて「濱田庄司」を知った。陶芸にそれほど興味はなかったが、濱田庄司記念「益子参考館」と「益子陶芸美術館」を訪ねて、濱田庄司という陶芸家の存在を知った。イギリスで活動した後、栃木県の益子へ居を移し以後活動の拠点とする。益子を陶芸の町として内外に知らしめた人物でもある。

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    ▲益子参考館
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    ▲益子参考館の登り窯
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    ▲益子参考館の作陶スペース

 「益子参考館」の説明には以下のようにある。「濱田庄司は、近現代の日本を代表する陶芸家の一人です。1894年に東京で生まれ、東京府立一中時代に陶芸家の道を志しました。東京高等工業学校窯業科から京都の陶磁器試験場に入所し、この間に終生の友、河井寛次郎を得ています。 自身の作家活動の軌跡を「京都で道をみつけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」と振り返っているように、大正半ばにバーナード・リーチとともに渡英し、イギリスで陶芸家としての活動をスタートさせます。帰国後は、田舎での生活を望み、1924年に益子に移住しました。この時期には沖縄にも長期滞在し、多くの作品を残しています。1930年に、母屋となる建物(陶芸メッセ・益子に寄贈)を移築し、その後1942年までの間、多くの古民家を邸内に移築し、自身の生活と作陶の場としました。またこの間に、柳宗悦や河井寛次郎らと民芸運動を創始、日本の工芸界に大きな影響を与えました。1955年には、第1回重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に富本憲吉らとともに認定され、1968年には、陶芸家として3人目となる文化勲章を受けました。」

 僕が良いと思えたのは、釉薬の流描による大胆な模様の大皿などだ。意図しながらも作為的ではない力強い作風だ。凄いな〜と思いながら、レポート制作のためにいろいろ調べていくと、実は、濱田庄司の作品を見るのはこれが初めてではなかった。工芸Ⅰのスクーリングで日本民藝館に見学に行ったが、濱田庄司の作品数多く展示されていたのを今更ながら思い出した。日本民藝館には、作陶の拠点であった益子の土と釉薬を用いた作品がは約450点収蔵されているという。

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    ▲釉薬の流描による大胆な模様の大皿
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    ▲釉薬の流描による大胆な模様の大皿
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    ▲益子陶芸美術館
 「濱田庄司は、柳宗悦、河井寛次郎とともに民藝運動を推進した中心的存在であり、同時に民藝理論のよき実践者であった。物心両面から民藝運動を支え、1961年柳の没後には日本民藝館館長に就任した。」ということなので日本民藝館館に作品が多いのもうなずける。そして、益子が民藝運動の拠点の一つでもであったことが、工芸Ⅰの課題の流れとはいえ、なにか不思議な因縁を感じてしまうのである。もし僕が栃木県に住んでいなかったら、日本の工芸の活動として「民藝」を認識することもなかったし、ましてや「益子焼」そして「濱田庄司」をも知ることは多分なかっただろうから…